三井寺を舞台にした新シリーズ「音の三井寺」の第二弾
─鐘の音の彼方へ─
藤原道山(尺八)・吉田誠(クラリネット)
2021.09.19(日)・ 9/20(月・祝) 17:00開演【お知らせ, 主催イベント, 記録・レポート】
音の三井寺・その弐 鐘の音の彼方へ 藤原道山/吉田誠
2021年 9月19日(日) 17:00開演 会場:三井寺・光浄院客殿(完売)
9月20日(月・祝) 17:00開演 会場:ながらの座・座(元・正蔵坊)
Section1「アタリ」/Section2「オシ」/Section3 「オクリ」/Section4「静寂」
梵鐘の構成音による即興1−Ⅳ
藤倉大、廣瀬量平、尹伊桑、初代山本邦山、オリヴィエ・メシアン、藤原道山、ジョンケージ ほか
◉アフター・トーク
9月19日(日)「中世空間から得るインスピレーション」
藤原道山・吉田誠 + 福家俊彦(三井寺長吏)
※福家俊彦×吉田誠 プレトークをYouTubeに公開しました!
9月20日(月・祝)「時代を超えるということ」(仮題)
藤原道山・吉田誠 + 久保田テツ(大阪音楽大学ミュージックコミュニケーション専攻)
中世に生まれ、現在まで当時の姿のまま存在している二つの空間、「三井寺・光浄院客殿」、と「元・正蔵坊」。美しい音色で「日本三名鐘」に数えられる三井寺の鐘の音を合図にコンサートは始まる。藤原道山、吉田誠、この二人が挑戦する今までのコンサートの概念を変える試みに遭いに。
定 員:各回50名(一般40名、学生若干名)9月19日㊐分は完売いたしました
参加費:三井寺8,000円(入山料含む)、ながらの座・座7,000円、学生2,000円
*未就学のお子様の参加はご遠慮ください。
☞チラシ:PDFファイル [10.5 MB]
会 場:三井寺・光浄院客殿(9/19) ながらの座・座(9/20)
申込み:下記いずれかの方法でお申込みください。
①お問い合わせフォームよりお申込みください。
メッセージ欄にご希望の公演日時・チケットの種類・人数も合わせてご記入ください。
LINE QRコード ②LINE@で iDは
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主 催:一般社団法人文化農場(ながらの座・座)
後 援:滋賀県 滋賀県教育委員会 大津市 大津市教育委員会 文化・経済フォーラム滋賀
特別協賛:中山倉庫 滋賀石油
協 賛:京阪電気鉄道 びわ湖大津観光協会 びわ湖大津プリンスホテル 琵琶湖汽船
協 力:三井寺
Special Report
レポート1
「音の三井寺・その弐──鐘の音の彼方へ」を聴く 2021/9/19
(三井寺・光浄院客殿/藤原道山 尺八 吉田誠 クラリネット)
疏水に沿ってゆるやかな坂をのぼり、仁王門をくぐり光浄院へ。少し時間があったので、隣の金堂にお参りすると、夕刻のお勤めが始まっていました。般若心経を唱える僧侶の後ろで眼を閉じると、徐々に心身から日常の喧騒と雑念がはがれ落ちていきます。1200年間、こうして経を読み、修行の場であった三井寺(園城寺)で始まろうとしている演奏会に期待が高まります。
夕方5時、「三井の晩鐘」で名高いその鐘の音を合図に演奏は始まりました。
三井寺の鐘は少し薄く、それで音がよい、とは演奏後に三井寺長吏の福家俊彦師が話されたことですが、Aの音(すなわち黄鐘)のピッチをもつ鐘の音こそが演奏会のテーマでした。
「鐘の音の彼方へ」と題された藤原道山と吉田誠による尺八とクラリネットの演奏会は「ながらの座・座」(三井寺の正蔵坊)で昨年も開催され、その時に予告された通り、一年後に再び、お二人が競演されたのです。
昨年よりも一層、親密性を増した二人はどちらが尺八?今のはクラリネット?というほどに音色は渾然一体と混じり合い、藤倉大の
鐘のアタリ、オシ、オクリといった打音とその直後、音の減衰をあらわす用語で一括りにされたセッションは、いずれも即興的な音遊びに始まり、あたかも鐘の音がそうであるように、小さな極小のピアニッシモから最大音までレインジがとてつもなく広い(メシアンの<時の終わりへの四重奏曲>より第3曲)。そして庭に面した廊下を歩きながら、あるいは書院の後方からと移動する音源によって作り出される遠近感が心地よい(梵鐘の構成音による即興)。
最後のセッション4は「静寂」と題されていました。
終曲はJ.ケージの4'33"。とっぷりと暮れた庭からは賑やかだったセミの声はすでになく、秋の虫が繊細な強弱をもって饒舌な音楽を奏でていました。
狩野山楽の「松に滝」の名画と時とともに移り変わる庭園からのセミと虫の音、そして始まりの鐘。なんと見事なセッティングであったことか。
福家長吏によると「この書院はわれわれの根っこにある文化を生み出してきた。今、これからも新しい文化を生み出す場所でありたい」と。ということは「ながらの座・座」のチャレンジングな企画以外にもこの奇跡のような場で音楽を体験するという最高の贅沢が味わえるのでしょうか。
「渾然一体」。終演後、満月を目印に帰途につく私には、メシアン、尹伊桑、山本邦山、廣瀬量平、藤倉大、そして尺八とクラリネットですら境界が滲み、作品は器となり後退し、前面にあるのは双子のように通じ合う奏者の息と音でした。
レポート2
「鐘の音の彼方へ」@ながらの座・座を聴く 2021/9/20
昨年に引き続き、藤原道山・吉田誠の二人による、尺八・クラリネットという異色の組み合わせを、歴史ある日本庭園に抱かれながら聴くという、企画からして目を見開いて(耳を?)しまう演奏会である。今回の公演は、「三井寺」と「ながらの座・座」で2日にわたって行われたが、私は二日目の座・座のほうを聴くことになった(両方聴いておけばそれもまた楽しめたなと、あとで後悔)。
今回のテーマは、一日目の公演会場の三井寺にまつわる「鐘」だそうだ。プログラムもそれのインスピレーションとして組まれていた。解説によれば、鐘の音というのは、その特徴的な音を「アタリ」「オシ」「オクリ」の三段階に分けて捉えられる伝統があるとのことだ。鐘を撞く最初の打撃音、その直後10秒ほど続く比較的高い音、そしてそれが減衰して消えていくまでの音の3つである。今回のプログラムは、その3つの段階に加え、最後に訪れる「静寂」によって閉じるという、4つのシーンで構成される。
出演者二人と、日本庭園という場を提供する企画者の性格もあるのだろう。惰性ではない、その都度のテーマをもった演奏を毎回用意してくるあたり、耳でも頭でも楽しませてくれるのは有り難い。
今回も音を聴くなり引き込まれたのは、全く違う文化的背景をもった2つの楽器と、その技法から出てくる異質な2つの音の、まるで演舞を観ているかのような動的なやりとりだった。文化の差異ゆえの相容れなさと、それゆえの歩み寄りや、瞬間的に2つの世界が交叉してまた離れていく様子など。今回は休憩なしの、全通しの演奏であったが(鐘の音に休憩はないのだから)、かえって時間経過に穴があくことなく「静寂」まで堪能することができた。
思うに、和洋折衷をねらった公演というのは、現在ではもはや珍しいものでもなくなった感がある。が、それは思いつきの容易さに反して、本質的な問題をかかえているように見える。多くの場合、単にジャンル違いがたまたま同じ場にいた、という段階にとどまる危険性があるわけだ。本当にそれぞれの歴史の重さと、そこから生じる数々の制約と可能性を探る試みがどれだけあるだろうか?これは、ジャンル横断の企画を目にするたびに、頭をよぎる問いだ。
演者のトークでも触れられていたのだが、例えばクラリネットには無数のキーがあり、そのメカニズムによって楽音を制御するのに対して、尺八は5つの穴があるのみで、指の微妙な塞ぎ具合や顎の形などの身体技法で、同等以上の音のヴァリエーションを実現しているらしい。この点でも、西洋音楽の楽器であるクラリネットは、明らかに一つの音を楽音として扱えるようにする、という強い「制御」の意思を持っている。それをハードウェアに落とし込んでいる。そんな設計思想を感じる。尺八はというと、身体技法によってゆるやかに「束ねる」とでも表現できようか、ハードはシンプルにとどまる反面、ソフトウェアへの重心をかなり多く残しているわけだ。もっと言うなら、自然発生的な偶然性のようなものを呼び込むような思想を、その向こうに感じる。この双方の差異はそれこそ、西洋の庭園と日本の庭園の設計思想の差異を思わせる。他にも、それぞれの楽器に合った音環境の違いや、楽譜に記される情報の根本的なスタイルの違いなど、もちろんそれは優劣の差異ではなく、互いの文化が持つ志向性としての、無視し難い存在意義としての差異がある。
公演後の談笑の中で吉田さんは、藤原さんの尺八の技法とそれを操る彼の柔軟で広い思想を絶賛し、そこから具体的に学んだ技法を嬉しそうに話してくれたし、藤原さんの方はというと、自分の技法を次々吸収していく様子を喜びつつ吉田さんを見て、「ぼくの仕事とらないでよ」などと小気味良く笑っていた。彼らはもちろん自覚的に、自らが背負っている文化...いや、文化と一言で片付けてしまうには重厚すぎるほどの、人々が紡ぎ出してきた時間の集積、それらを持ち寄って、その衝突と調和とを楽しんでいたのだった。
今回はプログラムの構成(多くが邦楽曲)と、そもそも演奏の場が日本的な音環境ということもあり、どちらかというとクラシックを背景にもつ吉田さんのほうが、ホームで存分に力を出せる藤原さんに肉薄していく、という事情はあっただろう。デュオではその近さと遠さが入れ替わる様子がよく聞かれた。そして加えて、それぞれがソロを演奏する時には、演奏の舞台でありそれ自身が長大な歴史を背後にたたえている座・座の庭園が、それぞれ二人の音に対して、全く違う場に来たかと思うほど、関係性を変えて応えているように聴こえたことが何度もあった。尺八の音に対しては溶け合うように、クラリネットに対しては対照的に互いを立てるように。ともかく、この公演では、単なる二人の共演にとどまらない、歴史的背景をも突き合わせるような緊張感があったし、そこに物言わぬ庭園が都度役割を果たしていたことも確かなことだった。
結果、視聴者の中からは「目をつぶっていると、どちらの音かわからない時があった」などの声も聞かれたように、実際かなり場の皆にも伝わっていたようだ。他にも、庭園独特の環境音の妙というか応答について、皆それぞれに嬉しそうに語っていた。奏者二人のやり取りだけでなく、演奏中の庭園とのやり取りについても、木々や虫の音、池の鯉が跳ねる音などなど、「鐘」の音が消えるまでの無数の共演が、確かにそこに在ったのだ。
ところで、良い「鐘」とは、その条件として、その音の中にある程度の「うなり」があること、というのがあるらしい。その「うなり」は周波数のわずかに異なる2つの波が干渉することによって生ずる。その原因は、鐘自体の周波数特性の場合もあれば、音が伝わる建物の構造や地形、温度差など、様々な外的要因にも左右されるという。
藤原道山と吉田誠という個人の差異、それぞれを支える文化的差異、そしてその2つの波が、近づきつつも離れて置かれ、それを日本庭園という複雑な外的要因の中で展開・干渉しあい、響き合いながらそれを終え、静寂へと向かっていく...。出来すぎといえばあまりに、と思われるような、稀有な時間であった。